045 Y.C.B. Prologue

 

【港町横浜】

私は、横浜生まれ、横浜育ちではありません。
横の浜では無く、浜の松の横の町・磐田という地で生まれ育ちました。
横浜本牧には、1994年から住んでいますが、横浜の魅力は、ここでは書ききれない程多くの要素・景色・モノ・コトがあり、皆さんもご存知でお感じになられている事は沢山あると思います。
その中で、自分で魅力的な横浜らしさを表現して出来ることは無いだろうかと漠然と考えはじめたのが、50歳で26年間務めあげてきた会社から独立して、自分一人でマーケティングとマネージメントのコンサルティング事業で会社をはじめた翌年に何故か毎日考えるようになりました。
横浜歴史博物館に行って横浜の発展の歴史を調べたり、今ではネットで欲している情報に早く辿りつける環境にありますから、いろいろと調べ尽くしました。
皆様の横浜のイメージは、共通して港町横浜であり、江戸末期に幕府が自由貿易を許可してから、漁村だった横浜が通商貿易の港の一つとして開化・発展がなされてきました。未だモノが豊かでない時代、欧米から持ち込まれた舶来製品の入り口として日本には無いさまざまな文明産物が輸入されてきました。当初は、綿織物などが輸入されていたのが、明治時代後期あたりには、技術や設備の輸入もあり逆に綿花や羊毛などの輸入が増え、織物製品などを海外に輸出するようになってゆきます。勤勉で真面目な日本人ですから、技術の習得とエボリューションには優れておりますので、製品づくりをすれば世界の製品よりも良いモノを作りますから、日本で作られた良質な製品を今度は海外の国々が買い輸入するようになってゆきます。代表的に世界に誇れる横浜名産品といえば、手捺染プリントのシルク・スカーフが有名です。それから、化学繊維の織物が普及・流通する前の戦前時代には、麻か綿織物生地が主流でしたので、日本で織られた綿帆布は良質で当時軍需もありましたが、欧米・アジア各国に輸出されていた時代がありました。
横浜には、昭和18年まで横濱帆布株式会社が存在していて、最盛期には綿帆布の海外輸出量の70%を占め、横浜の地から日本の良質綿帆布が世界に輸出されていました。横濱帆布株式会社は、保土ヶ谷に自社の織布工場を持っていましたが大正12年の関東大震災で工場は全壊してしまい、震災以降に主力の帆布生産工場として関わっていたのが岡山倉敷にある武鑓織布工場(現在の株式会社タケヤリ)でした。
そして横浜は、船舶の増加とともない、修理・造船という設備が必要となり港周辺には、その関連した工場・施設が建設されてゆき、それにともなう技術も養われてゆくことになります。現みなとみらい地区にそびえ立つランドマークタワーの袂には、日本最古の商船用石造りドック(現:ドックヤードガーデン)があり、みなとみらい都市開発以前は、桜木町・高島町あたりには、造船・船舶修理に関連した施設工場が隣接していました。その中に、大正3年に創業された森野帆布船具工業所がありました。帆布・ロープを中心とした船具加工業として長年にわたるノウハウの蓄積により確立された森野流加工技術が認められ昭和17年に旧帝国海軍の軍需部専属工場に指定され艦艇専用品の製作を任されていました。戦後も船舶運営会の指定工場となり船具加工および各種帆布・ロープその他船用品を製作している業界No.1の技術工場です。 1970年に現みなとみらい地区開発にともない中区かもめ町に社屋を移転し現在に至ります。
そんな森野帆布船具工業所との出会いは、私が横浜発信のブランド構想を思案している時に、天命の如く必然的な出会いであったと思います。私が心奪われた素材が森野艦船帆布4号(3号規格品)の生地で、日本で初めて開発されたビニロン繊維(アメリカが開発した化学合成繊維のナイロンに対抗しナイロンよりも丈夫で耐久性のある化学合成繊維を開発)で織られた帆布で海上自衛隊の船舶で使用されている特殊生地で、しかも帆布3号規格レベルにスペックアップした織布に両面防水塩ビ加工をして仕上げ、耐光・耐塩・防炎処理を施された特殊仕様の生地でした。
この森野艦船帆布との出会いで2011年夏に横濱帆布鞄というブランドが船出致しました。

【日本の良質な帆布生地と天然鞣し革の拘り】

横濱帆布鞄では、海上自衛隊の船舶用にスペックアップして製作された防水性の森野艦船帆布3号と、もう一つ岡山倉敷にある武鑓織布工場(現:株式会社タケヤリ)の帆布生地を使用しています。それは、戦前まで存在していた横濱帆布(株)のルーツを辿り、日本の良質な綿帆布を世界に輸出していたのが、岡山の武鑓織布工場で織られた綿帆布だったのです。横濱帆布(株)の名を世界に轟かせた日本の技術による武鑓綿帆布に決めました。
鞄(バッグ)を拵えるには、鞄本体となる部分と手で持つ、肩から提げるための持ち手(ハンドル)やショルダーベルトがパーツとして必要です。日本国産の高密度で織り上げたテープを主に使用していますが、鞄のデザインとして革パーツと森野艦船帆布・武鑓帆布組み合わせたモデルも企画製作しています。
鞄と長く付合い頂き愛着の持てる相棒となりうる鞄になるためにも、革パーツ選びも大切です。横濱帆布鞄では、海外の輸入革でなく、純日本メイドに拘り頑なに守り続けてきた伝統の皮の鞣しの匠の技を持つ栃木レザー製の天然鞣し牛革を使用しています。植物性タンニン液でじっくり時間をかけてなめし上げた純正ヌメ革製法は、日本の風土にあった加工方法で約1か月~1か月半かけ基礎素材を作り上げ、染色・塗装をして仕上げられ、全20~ 25工程ある革製造工程それぞれに匠の技術が結集された良質の天然鞣し牛革なのです。
*下左画像2つ

【ミリタリー系パーツに拘り理由】

ミリタリー・スペックとして作り上げられたモノは、究極のアウトドア・スペックであると考えています。過酷な戦地・環境でも耐えられる仕様であったり、使用する場面によって使い易い工夫が為されています。それらのモノには、その時代の最先端の技術と知恵で開発されたモノであり、そこにはどうしてその様な構造・作りになっているかという理由があります。
森野艦船帆布3号も、日々海原に居る海上自衛隊船舶用ですので潮風や太陽の紫外線による腐食劣化が起きてしまうので、耐光・耐塩加工処理が為され生地の劣化防止維持できるモノになっています。また、南極観測船などの極寒地ぬ出向く場合もあるので、耐寒地仕様で-30°の環境でも生地が固くならない、という船具の中では最高のスペック生地なのです。
横濱帆布鞄で使用している金属パーツの中で、実際に1950年代(戦後朝鮮戦争時米国から軍需パーツとして国内生産されていた。)使用されていた日本製のミリタリー・パーツがあります。ショルダーベルトをジョイントするナス管(下右画像)パーツです。板バネが外れないように板バネの板の両サイドが立ち上がった構造になっているので外れにくいのです。通称亀甲フォック(下右端画像)も、
軍の銃の弾倉入れの蓋の部分に使用されていたパーツです。蓋を下から持ち上げると簡単に開くような構造のフォックなので、上部からテンションがかかった時には開きにくく、下部からテンションがかかった時には簡単に開くのです。

 

【鞄づくりの工房とショップを海岸通に構えた理由】

 小さな漁村だった横浜が、日本の海外との通商貿易の港の一つとし江戸末期に幕府が自由貿易を許可してから、開化・発展がなされ今に至ります。港町横浜を象徴するエリアとして新港埠頭と馬車道を結んでいる万国橋の袂にある倉庫の一角を活動拠点に選びました。
万国橋、名の通りここから世界万国に通じた橋であり、多くの海外産品がここを渡り、また良質な日本産品がここから海外に渡っていったのです。横浜オリジナルの横浜メイドの横濱帆布鞄製品をこの場所から発信してゆくことが、夢ある物語を進めるには最適の場所だからなのです。

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2011年に横濱帆布鞄ブランドを立ち上げ、2012年12月にこの万国橋SOKO104号(現在は、横濱帆布鞄万国橋本店としてショップにリニューアルしています。)に出会い、予算が無かったので工夫して、ほぼ手作りの工房オフィスを2013年2月にスタートすることが出来ました。平日に工房で鞄づくりをして、週末の土・日曜日・祝日には、WEEK END SHOPとしてオリジナルバッグの販売を行っていました。
丸9年お世話になった万国橋SOKOが残念ながら、再開発に伴い解体建替えという事になり、2021年12月に横浜が開港以来外国人の居住エリアと設定した中区山下町1番地の英一番館の跡地に建てられたシルクセンター内の英一番街に縁良く移転することになりました。見える工房ショップとして横濱帆布鞄英一番街本店が2021年12月3日から再スタートしました。